吉ヶ平歴史散策ツアー




 2014年6月22日(日) 天気 小雨、

  吉ヶ平の池巡りをする歴史散策ツアーに参加しました。

  旧下田村吉ヶ平集落は、昭和45年集団移転以来廃村となりましたが、度々襲う豪雨の大きな被害にもめげずに歴史と豊富
  な自然の保存継承に向け、行政はじめいろんな団体&個人の弛まぬ努力で今日に至っています。

  約20年前、国道289号線(旧下田村〜只見町間)の開通を促進する会の八十里峠超えの行事に参加した事がありました。

  歴史ある八十里峠越えを歩く住民運動で国が国道289号線を着手し、工事着工・促進を図る目的ですが、歴史ある山道を
  歩くに山登りが好きな私にとっては、参加する事で国道289号線の促進に繋がれば一石二鳥の気持ちの参加でした。

  その国道工事も豪雪地帯と秘境の山をトンネルで繋ぎ、その工事も進み見学するバスツアーが計画されるに至った今日、
  当時の運動に参加したひとりとして灌漑深いものがあります。

  今回の参加者は10名で、生憎の小雨でしたが、吉ヶ平の地理や歴史に興味のある私は意義ある散策ツアーとなりました。




  午前8時30分、旧吉ヶ平小学校校舎(分校)に集合、

吉ヶ平保存会のメンバーの紹介があり、
事務局長大竹さんの案内と説明で散策ツアーの出発です。



小雨の為、外での昼食は断念し旧分校で取る事にして最初は炭焼き見学です。

炭焼き小屋は近年に造られたそうで、昔炭焼き経験の
ある方を始め3人が中心になり炭焼きをしているそうです。

小屋脇には炭になる原料の雑木が積まれています。

4m〜5mも雪が積って耐えてきた炭焼き小屋です。

釜の中は真っ赤です、温度は1000度以上です 釜の扉を開けると高温の炭火で真っ赤です 炭火を釜の外に出す体験者です


炭焼き見学と体験を終えて次の大池に向かう前の説明です。




途中以前は棚田であったとの説明、現在は草むらで面影がありません

 


下記の画像は昭和29年に撮影した画像です。

当時の棚田の様子は、現状の様子から想像を超える光景です。

当時集落の人達が人力で開いた棚田は、
人間の生きる力の尊厳を感じる貴重な画像です。

当日頂いた資料から添付させて貰いました



現在国際グローバ化という事で関税撤廃のTPP交渉が進められていますが、
間違えば日本農業は破壊し、中山間地の田は藪と化し面影がなくなる事を思うとゾッとします。


30分ほど山道を歩くと大池に着きました。
私が若い時守門岳を下山し歩いた記憶は歩く脇に池がありました。

池の周辺の雑木が大きくなりその面影もありません。
ただ、自然が残され貴重な動植物が生息する反面貴重な池です。





次に訪ねた所は京(経)塚で、ひとつの石碑は雪で倒れていました。

吉ヶ平にはお寺は無かったそうですが、
この下には経典が埋っているのでは?と考えられているそうです。

 


その京(経)塚の少し離れた所には草と土で埋まっていた廻国塔です。

他にもいろんな石仏が掘り出されていました。

廻国塔は新潟県では珍しいとの事、
吉ヶ平保存会のみなさんが見つけ掘らなかったら迷宮入りになった塔と思いました

 


史跡巡りは時代を遡り当時の事を思い浮かべ想像するロマンがあります。

次に訪ねた所は神社跡で、ここにあった社は廃村と同時に
見附市に移築したそうです。

当時は集落の人達が祭りや会合にも使われた社のようで、
祭りには店も出た事もあったそうです。

この階段も草と土を取り除き当時の階段が蘇返ったそうです。




神社跡を見学し山手の方に移動すると
当時雪崩に遭遇した少年達の遭難碑と道祖神の石碑が
これまた保存会のみなさんの草刈りで姿を現していました。




さらに進むと2軒の墓がありました。

今でも集落跡に墓所が沢山ありお盆には
お参りに訪ねる人が居られるそうです。

 


少し進むと右側に栗の木の大木があり、
今は藪の中だが、当時の集落が存在した面影が忍ばれました。




進むと標高470mと表示された石柱があり、
この場所は「馬場跡」と記されていたが、「馬場」ではなく厳密には
「祠場」であり、馬が放牧されていた所でもあったという。

ここは、番屋山(左)と八十里峠(右)への分岐となっている。

すぐ右手先にも石柱があり、
そこには「詞場」とあるが「祠場」で文字の間違いと説明があった。

集落の当時の地図を見ると説明者の大竹さんの言う通りであり、
間違いが本当になる事を恐れ、
八十里峠が注目されている今日、間違いを憂いています。




分岐を左に進み「雨生ヶ池」と進む。

「雨生ヶ池」の文字と由来は幾つかあるそうだが、
現在は「雨生ヶ池」に統一されているようだ。

しかし、呼び名は「まおいがいけ」と「まごいがいけ」と二通りの呼び名があるようだ。

雨生神社は雨乞い信仰から考えると「まごいがいけ」と呼ぶのも頷ける。

「雨生ヶ池」の手前の小高い所に小さな祠「雨生神社」の祠があるけど、
雨生神社は八木神社に合祀されたとの事・・・

現在でも「雨生講」が五十嵐川沿いにあり、
吉ヶ平集落出身の方達の「雨生会」もあるようで「雨生」は、
吉ヶ平の代名詞にもなっているように思えた。

ちなみに三条市のHPには「雨生ヶ池」は「まおがいけ」と記していた。

その「雨生ヶ池」に着く前に「雨生神社」の祠をお参りし、「雨生ヶ池」に向かう。

 


「雨生ヶ池」が近くなるとブナ林となり神秘的な雰囲気となる。



 


池の淵は番屋山への登山道となり、
二日後の24日にはここを歩き番屋山への登山を計画している。

番屋山の下の文字に馬追沢とある。

この池は馬が追われて池に落ちたとの説もあり
池の源流は馬追沢という名になっているとの事・・・

ここの標高は555mと新潟県としては
数少ない高所での池ではなかろうか・・・?




池の上にあるブナの古木を見学し・・・

 


引き返します。




最後に来る時の登山道(古道)の上に安置された
会津から逃れて来た源 仲綱公の墓所を見学する。

最後に案内・説明者の大竹さんの吉ヶ平歴史散策まとめの話で旧分校に戻る。

 


吉ヶ平はゲリラ豪雨がある度に道路が決壊するけど
有難い事に修復が繰り返されています。

古い分校も今年には新しい建物に変わり、
吉ヶ平の自然と歴史もさらに蘇る事は嬉しい事である。

私はまだ八十里峠を超え只見町入叶津迄は歩いていないので
機会があったら歩きたいと思っている。


おわり

三条市、八十里越・国道289号紹介のページ


歴史散策の説明と資料を拝見し
さらに私の記憶と私見も入れて今回の参加記録としました。

間違いがあったらご容赦ください。