八海山の頂に立つ直江兼続の考察


















                                  NHKのHPよりお借りしました



           私は、NHKの大河ドラマ「天地人」のオープニングシーンで、直江兼続が八海山(第1峰地蔵岳)の頂に
           慄然と立つ姿を見て何故この頂に立っているのだろうかと思うようになっていた。

           8月23日(日)に山友達のNさんと八海山に登る機会があった。

           彼は、八海山に向かう車中で、「私の菩提寺に八海山の頂に立っている直江兼続と同じ姿の像が安置さ
           れている」と話された。

           そのお寺は、彼が住いをする信濃川の向う岸で、さらに離れて三条市井栗の福楽寺であるとの事。
           Nさんは私と同じ加茂市でどうして行政区が違い、しかも信濃川の遥か向こう岸のお寺とはどういうご縁な
           のでしょうかと聞いたら、彼も良く解らないという。

           車の中では、成る程と聞いていたが、せっかくの機会なのでそのお寺を訪ねてみたいと思いがしていた。
           八海山・地蔵岳の山頂に立ち下山してから、Nさんの菩提寺・福楽寺に寄りたい気持ちが強くなり、帰りに
           そのお寺にご案内を頂けないだろうかとお願いをする。

           彼は、帰路の高速道路のサービスエリアから、お寺に連絡を取ってくれた。
           午後7時近くで遅くなっていたが、そのお寺を訪問させて貰う事が出来た。
           私は、ご住職に「見ず知らずの者が、山の帰り服装のままのお邪魔で申し訳御座いません」と挨拶をする。

           お茶を頂きながら、お邪魔した理由は、「今日八海山に登り、天地人のシーンで、直江兼続が何故八海山
           の山頂に立って居るのだろうかという疑問を持っていました。御寺の毘沙門天の像にヒントがあると聞いて
           お邪魔しました」と申し上げると、住職も「私も大河ドラマを見てそう思っていました」と、話を始めてくれた。

           「福楽寺は、加茂市の長福寺から引き継いだ毘沙門天の小さな像(立象17cm)があり、その毘沙門天は
           岩の上に立っている姿像であり、兼ねてお寺に安置されている『毘沙門天』は何故岩の上なのだろうかと
           私も疑問を持っていました」と住職は私が思っていた疑問と同じかった事から語リ始めてくれた。

           「毘沙門天の右足下は、天邪鬼(あまのじゃく)を踏みつけている姿が普通であるが、福楽寺に安置されて
           いる毘沙門天像は岩の上であり、大河ドラマの『天地人』を見ていてオープニングシーンで直江兼続が岩稜
           の八海山に立つ姿は、右足を岩の上に置い立っており、寺の像とまったく同じである」と思いましたと語り。

           「お寺の像は上杉謙信ゆかりの像に間違いないと確信し、資料を持ってNHKに話をし、その後NHKから
           直江兼続の写真の送付と許可を貰い新聞発表をした」と、住職より説明と話を聞くことが出来ました。

           この毘沙門天の像が安置されていた加茂市に昔存在したお寺・長福寺は、新潟県内に幾つかある真言宗
           の祈願寺として上杉謙信も「宇内平定・安民和楽」を念じて祈願をされた寺であったという。

           上杉謙信は常に毘沙門天を信じお参りをし、自らを毘沙門天の化身として戦の神・毘沙門天を崇め「義」の
           戦いに挑んだ武将であった事はご存知の通りであります。

           長福寺から受継いだ福楽寺の毘沙門天像は上杉謙信が『難攻不落の居城は山岳にあり』の秘想を具現
           化し、祈願した『宇内平定・安民和楽』への思いが込められている。と、福楽寺の住職の話であった。

           よって、ドラマ「天地人」の直江兼続が八海山の岩稜の頂に立つ姿のシーンは、上杉謙信が毘沙門天を信じ、
           毘沙門天を崇め、毘沙門天の化身として「義」の戦いに挑む教えを引き継ぎ『宇内平定・安民和楽』を念じて
           旧六日町上田の荘を始め、魚沼一体と越後を見下ろせる「岩稜の山、八海山」の頂を選んだものと思った。

           そして、私の住む加茂市の長福寺という山間の集落は、その昔は長福寺という寺があり、その寺はすでに絶
           えて廃寺になっている。(集落名は今でも長福寺という名である)

           私は、長福寺は檀家の数が少なく維持が困難となり廃寺になったのかな?と思っていたが、そうではなく、
           上杉景勝が豊臣秀吉の命により越後から会津に国替えをする時、長福寺の住職も上杉景勝、直江兼続に
           付いて会津入りした事により廃寺なったと言うことであった。

           その長福寺にあった毘沙門天像を末寺の筆頭格であった福楽寺が受け継いだという。
           私も改めて加茂市史を読み返すと、長福寺は真言宗の祈願寺の一つであり、上杉景勝、直江兼続が国替
           えをすることで廃寺になった事が記されていた。

           丁度この23日、日曜日の大河ドラマは、国替えを命じられて直江兼続が越後を後にする時、再度八海山に
           立ったシーンがドラマの中に映し出された。

           このシーンでの直江兼続は、越後を去るにあたり、上杉謙信が越後の民を思う心と自らの心を想いを重ね、
           毘沙門天の化身となり、八海山の頂に立ち「宇内平定・安民和楽」念じて上田の荘、魚沼・越後の民衆の幸
           わせを願って会津へと国替えの旅に発ったものと解釈をした。

           これから以前に増して直江兼続の人間としての生き方を描いた大河ドラマ「天地人」を見るのが楽しみである。
 
            若干付け加えると
           現在も存在する福楽寺の周辺には、万葉の藤と呼ばれる古木があり、時期になると多くの人が観賞に訪れ
           るそうである。

           この藤は、万葉集の歌にも歌われているとの事から、奈良時代には、福楽寺は沢山の前寺が並び藤も一面
           に咲き繁栄していた様子を聞く事で伺えたが、これが時代の移り変わりで今日があるとしみじみ思った。
           その師匠寺が長福寺であったことを考えると、格式があったお寺であったと言える。

           そして、川向いのNさんが何故福楽寺の檀家にと聞くと、新潟平野(越後平野)は信濃川はじめ各河川の支流
           も今のような姿ではなく、お寺のある井栗地区は住みやすい所で多くの人々が住み生活を営んでいたが、繰り
           返しの河川の氾濫と改修と共に地形が変わり、井栗地区から人々は別な所に移り住み、今日の地形と三条市
           が形成されているとの話であった。

           歴史には、直江兼続が現在信濃川の支流となっている中之口川(当時は直江川と呼ばれていたという)の
           改修もしたという記述もあることが解り、住職の言われる当時Nさんの家は信濃川は別な流れで安外陸続き
           であり、遠くではなかったのではと自分なりに考え理解出来た。

           そして当時は、川を使って物流の運搬が行われていた事を考えると、信濃川、魚の川は現代では考えられな
           い重要な運河の役割を果たしていた事が、過去ドラマにも紹介されていた。

           23日の八海山登山は、福楽寺を訪ねるきっかけと福楽寺住職の話を聞く機会に恵まれ、直江兼続が八海山
           に立つ姿の訳と私の住む街にある長福寺の歴史をも紐解く事も出来て意義ある八海山登山となった。

           尚、福楽寺の毘沙門天像のご開帳は、一年に一回で、来年5月に本堂新築の落慶法要に合せて行われる。


            *このレポートは、ドラマの経過、上杉謙信、直江兼続の考え方生き方、福楽寺の住職のお話も聞き
             若干の資料と市史を読み、私の理解にて「八海山の頂に立つ直江兼続の考察」とさせて頂きました。


                                                          
                                                          2009年8月30日 記



                 2009年8月23日八海山登山レポート