昭和39年の飯豊登山記録が届く


  2008年3月29日OB会
    以前務めていた会社のOB会総会が開かれた。約48名の参加者で今までに一番多くの
    参加者の数であった。

    懇親会に入り参加者は、昔話から現況の話に延々と花が咲いた。
    若い時、当時の山岳部で飯豊連峰の集中登山をした時の文集が出てきたと、Mさんが私の
    ところに来て話をしてくれた。

  *43年前の飯豊登山の記録集届く*
    当時のことを知りたくて是非見たいと話したら、翌30日、文集を届けてくれたので早速懐か
    しく目を通した。 
                     
    当時は、ワープロとかパソコンは無かったので、自前の印刷は殆どガリ版刷りで作成され、
    この記録もMさんがガリ版書きをしたと言う。


                  



    登山は、昭和39年8月15日〜18日の3泊4日の日程で、参加者は13人、遡る事43年前の
    「飯豊連峰集中登山記録」である。

    この年は、新潟国体が開催され、登山部門は飯豊連峰が会場で、御西小屋が新築された年で
    もあった。

    当時はまだ、車社会ではなく登山口までの交通手段が何処からも容易でない時代でもある。
    班分けと登山ルートは、杁差岳班、大日岳直登班、石転び沢班と川入りから登る三国班の4班
    であった。

    それぞれのコースから登り、北股岳に合流する計画であった。
    当時の私は、山岳部の部長を務め、初心者がいる三国班の4名のリーダーとして集中登山に参
    加した。

     平均年齢は20〜21歳で、私はこの時22歳であった。


                                    


    記録集を届けてくれたMさんは、当時19歳でオンベマツ尾根から大日岳に直登する
    班に加わり当時の様子を話してくれた。

    記録集には、4日分の食料と荷物を担くので、相当の体力が、要請される為、2ヶ月前から
    神社の約80段ある階段を休日を除き、ほぼ毎日夜8時頃に集まり20〜30回上り下りし、
    また人を背負って階段登りで体を鍛えた。
 
    にも関わらづ各班とも一人は、登りで痙攣を起こしていた事が記されており、考えるとそれ
    相応の荷物であった事が伺える。

    記録集は、登山計画と実績&感想等で26ページの冊子である。
    記録の中から、当時の各班の特徴的な事を部分的に紹介する。

    当時、各班とも電車や汽車を利用し、三国、石転び班は、登山口までは地元の軽自動車で、
    他の二班は駅からタクシーで登山口まで移動していた。


  *三国班*
    午前10時40分に川入りを出発し、途中初心者が痙攣を起こし、1時間15分の大休止を2回
    取り、切合小屋に夜の8時35分に到着。
    行動予定には最悪夜8時30分と記されていたが、その最悪の予定した時間に到着している。

    そして、御沢小屋、横峰小屋、地蔵小屋、三国小屋着等々それぞれ時間が記され、当時は
    御沢小屋、横峰小屋、地蔵小屋が存在していたと思った。
    しかし、残念ながら当時の小屋を写真に収めたものは無く記憶も消えている。

  *大日岳直登班*
    日出谷駅から実川集落奥3km位までハイヤーで入り、湯の島小屋迄1時間20分歩いている。
    またその頃のルートは、湯の島小屋から恐らく「おこない峰」を登り、上流から沢を越える道で
    あったのではと思われる。

    以下記録を転写する。
    「テントは月心清水か時間があれば水場のある櫛の峰とあったが、櫛の峰は水場が無く牛ヶ首
    の鞍部にも水場があるとガイドブックにあったので牛ヶ首まで頑張って進み水場を探したが見当
    たらず、夜7時になり喉も渇き食事も出来ず疲れ切ってテントを張って眠る。

    翌朝、朝食も取れずに出発、ヘトヘトで休み休み歩き、ようやく惣十郎清水に辿り着き、ザックを
    投げ出し夢中で水を飲み、「水を得た魚のようになり」ようやく食事も取る事が出来た」と、生々し
    く当時の様子が記されていた。

    また、ガイドブックの水場ありと書かれていたが、ガイドブックは当てにならないと当時の苦悩振り
    が登頂記に記されていた。

    今、考えると櫛ヶ峰も牛ヶ首の鞍部も、残雪があればその流れ水ではないかと思うが、初めての
    コースで、経験も浅く臨機応変な水場の事前の判断が出来なかったのではと思える。


                 北股岳に各パーティー集結、全員で記念撮影する
             


  *石転び沢班*
    山形県小国駅から国鉄バスで長者ヶ原まで、料金130円,荷物代一個20円とあり、長者ヶ原から
    2km先までトラックが入り、そこまで一人100円と記され、当時の交通手段と料金が懐かしい。

    また、梶川沢出会いを門内沢出会いと間違えてそこにビバークしたとあった。
    翌日、7時出発、出会いを7時45分に通過、8時から雪渓歩き、3回合計27分の休憩を入れて、
    9時45分で雪渓歩きを終えている。

    10時50分に、梅花皮小屋のある十文字鞍部に上がり、北股岳に登り、連絡用のトランシーバー
    で、大日班の交信に際し、繋がりが悪く峡彩山岳会から中継をして貰い交信が出来たとあった。

  *杁差岳班*
    大熊小屋経由で蹴石橋を8時半に出発し、長いアプローチで水場とテント場を決めるのに苦労し、
    新六の池をテント場に夜7時着、池の水は沸かして飲む。

    登山記に頂上付近の様子が次のように書かれていた。
    「翌日、池を出て15分位登ると、ミヤママツムシソウ、ナンキンコザクラの群落が現れ頂上迄お花
    畑は続くいていた」と。

    さらに「飯豊北部杁差岳は、まだ荒らされた形跡は無く、風雪に耐えて咲いている花は可憐な中
    にも生命の躍動を感じさせる。杁差岳頂上一帯は、高山植物が密集して咲き、広く天上の楽園で
    ある」 と、記録されていた。

    残念ながら現在は当時のその様子を伺う事が出来ない。


             


  *下山は全員オーイン尾根・湯ノ平温泉に*
    下山は現在は廃道になっている新発田市の露天風呂のある湯ノ平温泉のオーイン尾根を下り、
    河原にある露天風呂に浸って疲れを癒し一泊する。
 

                        当時の湯平温泉の様子
             


                        湯平温泉を後に東赤谷駅に
                  


    最終日の四日目、湯ノ平温泉を朝6時に出発した。
    途中に5分と10分の休憩を二回取り、今は廃線となった東赤谷駅に向け山道と一般道を4時間
    20分かけて歩き東赤谷駅に到着した。

    重い荷物担いで延々と歩いた記憶が残っているが、みんな元気で13人が隊列を組んで歩いて
    いた事を思い出すと、年齢も若く体力もあったんだなーと思い返した。

     *これを期に、お蔵入りとなっていた私の当時のアルバムをも探し当てる事が出来た。

    今回は当時の画像でお蔵入りのアルバムも私にとっては貴重な資料であった。

    飯豊連峰の大日岳は、数年前の初登頂だけと思っていたら、この頃すでに2回登頂している事
    が判明し、記憶の喪失と記録の大切さをあらためて痛感した。

    これを機に時間を見つけて若い時の貴重な山記録を纏めてHPに載せて残したいと思っている。
                         
  
                                      
      2年7ヶ月の月日を経て、ようやくホームページに記録する気持ちと時間作る事が出来た。


                                 


独身時代の山@ 独身時代の山A

独身時代の山B  独身時代の山C
(飯豊連峰@)     (飯豊連峰A)

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